2017.05.27 Saturday
このブログで何度も取り上げている大学教員が教育学を理解してない問題、そして社会問題にもなってる保育士不足、待機児童問題、余剰ポスドク問題まで同時に解決できるような画期的な解決策を思いつきましたので紹介します。
しかもこれはデメリットが全く思いつかないという実に素晴らしいものです。
それは大学教員の教員免許必須化と教員免許の統合です!
大学教員は教員免許が必要ないため、研究はできても教育はパッパラパーの素人が指導と称してアカハラを自覚なしに行うことがしばしばあります。
教員免許を持ってる人間でさえ教育の適格者はひと握りしかいないのに、それすらない人間を教壇に立たせることにそもそも無理があるわけです。
もちろん大学教員でも教育上手はいますが、それは長年の経験であったり独学で身につけたものであろうと考えられます。
教員免許不要で教授会が採用を決めるというシステムは不可避的にコネ採用になりますし、これは腐敗の温床にもなってます。
したがって大学を教育機関だと位置づけるのであれば大学教員の教員免許必須化は必要なことです。
・・・
私もかつて大学教員志望でしたが、大学教員は人気職種のようでなりたい人はたくさんいます。
ところが現実は残酷で、まず博士を取るのは簡単ではありませんし、取ったとしても多くが万年ポスドクで助教にさえなれません。
教育者としての才能があったとしても研究能力がないという理由だけでアカハラしか能のないパッパラパーのスカポンタンがデーンと居座っていつまで経っても席を譲ってもらえないわけです。
大学教員に一番大事なものは教育者としての適性のはずなのにこれはおかしいでしょう。
そもそも大学教員を目指す人が多すぎるというのもひとつの原因であります。
・・・
一方で初等教育や中等教育の教員は足りません。
足りないから少子化してるのに一人あたりに割り当てられる教員数が増えず、個性を尊重しない無能が跋扈し、待機児童問題も解決しないわけです。
にもかかわらず教えられる人を十分に準備しないままプログラミングを必修化しようなんてむちゃくちゃです。
プログラミングと教育学の両方を修めてる人材が一体日本に何人いるというのでしょうか?
だったら高等教育の余った人材がそっちに流れてこれるようにすればいいのでは?
これが教員免許統合案の趣旨です。
現行の制度では保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校で免許が分かれていますが、それは実に非効率です。
中学校の免許だけあっても小学校や幼稚園を教えられないのはどう考えてもおかしいでしょう。
だったら全部一緒くたにして上から下まで全部教えられるようにすればいいじゃない。
・・・
教育は一種の技術であり、誰でもできるものではありません。
だからこそ教育学という学問があるわけで、研究ができれば教育もできるじゃろっていう前提は狂ってるとしか言いようがありません。
初等教育と高等教育の違いは教える知識の種類に過ぎず、教育に必要な基本的な技術は全く同じなわけです。
初等教育者に求められるのは基礎学力+教育学、高等教育であればそこに専門が加わるだけです。言い換えれば専門だけできても教育学がわかってなければダメです。
幼稚園の先生をする人に元素記号の知識はたぶんいらないと思うので、専門の勉強を避けて初等教育だけしたい人は車でいうオートマ免許にあたる「中学までだけ教えられる教員免許」を作ればいいのです。
「全部教えられる教員免許」と「中学まで教えられる教員免許」の二種類があれば十分です。
副次的なメリットとして最先端の専門知識を持った有能な人材が高等教育のポストを取れなければ初等教育にほうに流れてくると思われるので、それは個性尊重教育に役立ちます。
どこの学校でもクラスに一人ぐらいは歴史マニアとか周期表マニアがいたりするものですが、そこに共通の話題のできる先生がいると大いに救われるでしょう。
しかもこれはデメリットが全く思いつかないという実に素晴らしいものです。
それは大学教員の教員免許必須化と教員免許の統合です!
大学教員は教員免許が必要ないため、研究はできても教育はパッパラパーの素人が指導と称してアカハラを自覚なしに行うことがしばしばあります。
教員免許を持ってる人間でさえ教育の適格者はひと握りしかいないのに、それすらない人間を教壇に立たせることにそもそも無理があるわけです。
もちろん大学教員でも教育上手はいますが、それは長年の経験であったり独学で身につけたものであろうと考えられます。
教員免許不要で教授会が採用を決めるというシステムは不可避的にコネ採用になりますし、これは腐敗の温床にもなってます。
したがって大学を教育機関だと位置づけるのであれば大学教員の教員免許必須化は必要なことです。
・・・
私もかつて大学教員志望でしたが、大学教員は人気職種のようでなりたい人はたくさんいます。
ところが現実は残酷で、まず博士を取るのは簡単ではありませんし、取ったとしても多くが万年ポスドクで助教にさえなれません。
教育者としての才能があったとしても研究能力がないという理由だけでアカハラしか能のないパッパラパーのスカポンタンがデーンと居座っていつまで経っても席を譲ってもらえないわけです。
大学教員に一番大事なものは教育者としての適性のはずなのにこれはおかしいでしょう。
そもそも大学教員を目指す人が多すぎるというのもひとつの原因であります。
・・・
一方で初等教育や中等教育の教員は足りません。
足りないから少子化してるのに一人あたりに割り当てられる教員数が増えず、個性を尊重しない無能が跋扈し、待機児童問題も解決しないわけです。
にもかかわらず教えられる人を十分に準備しないままプログラミングを必修化しようなんてむちゃくちゃです。
プログラミングと教育学の両方を修めてる人材が一体日本に何人いるというのでしょうか?
だったら高等教育の余った人材がそっちに流れてこれるようにすればいいのでは?
これが教員免許統合案の趣旨です。
現行の制度では保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校で免許が分かれていますが、それは実に非効率です。
中学校の免許だけあっても小学校や幼稚園を教えられないのはどう考えてもおかしいでしょう。
だったら全部一緒くたにして上から下まで全部教えられるようにすればいいじゃない。
・・・
教育は一種の技術であり、誰でもできるものではありません。
だからこそ教育学という学問があるわけで、研究ができれば教育もできるじゃろっていう前提は狂ってるとしか言いようがありません。
初等教育と高等教育の違いは教える知識の種類に過ぎず、教育に必要な基本的な技術は全く同じなわけです。
初等教育者に求められるのは基礎学力+教育学、高等教育であればそこに専門が加わるだけです。言い換えれば専門だけできても教育学がわかってなければダメです。
幼稚園の先生をする人に元素記号の知識はたぶんいらないと思うので、専門の勉強を避けて初等教育だけしたい人は車でいうオートマ免許にあたる「中学までだけ教えられる教員免許」を作ればいいのです。
「全部教えられる教員免許」と「中学まで教えられる教員免許」の二種類があれば十分です。
副次的なメリットとして最先端の専門知識を持った有能な人材が高等教育のポストを取れなければ初等教育にほうに流れてくると思われるので、それは個性尊重教育に役立ちます。
どこの学校でもクラスに一人ぐらいは歴史マニアとか周期表マニアがいたりするものですが、そこに共通の話題のできる先生がいると大いに救われるでしょう。
- by: ふーちゃん
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